Share

第88話 字を書けない会計係

last update publish date: 2026-11-03 14:41:37

第88話 字を書けない会計係

 王都の帳簿には、字を書けない人間は存在しなかった。

 正確には、存在していても記録へ残らなかった。

「王都の人は、紙に書いてあれば、届いてなくても届いたことにするんですね」

 ハルド村へ到着したリディアが最初に浴びせられたのは、歓迎の言葉ではなかった。

 村の入口に立つ若い娘が、腕を組んで監査隊を睨んでいる。

 黒に近い茶髪は後ろで一つに束ねられ、厚手の外套には何度も縫い直した跡があった。年齢はリディアより少し下。十八か十九ほどだろう。

 その後ろには、村人たちが集まっている。

 老人。

 子ども。

 赤ん坊を抱いた母親。

 片足を引きずる男。

 誰一人として、笑っていない。

「マレナ」

 村長らしき老人が、困ったように娘を呼んだ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま   第88話 字を書けない会計係

    第88話 字を書けない会計係 王都の帳簿には、字を書けない人間は存在しなかった。 正確には、存在していても記録へ残らなかった。「王都の人は、紙に書いてあれば、届いてなくても届いたことにするんですね」 ハルド村へ到着したリディアが最初に浴びせられたのは、歓迎の言葉ではなかった。 村の入口に立つ若い娘が、腕を組んで監査隊を睨んでいる。 黒に近い茶髪は後ろで一つに束ねられ、厚手の外套には何度も縫い直した跡があった。年齢はリディアより少し下。十八か十九ほどだろう。 その後ろには、村人たちが集まっている。 老人。 子ども。 赤ん坊を抱いた母親。 片足を引きずる男。 誰一人として、笑っていない。「マレナ」 村長らしき老人が、困ったように娘を呼んだ。「王都から来た方々に、その言い方は」「違うんですか?」「違うかどうかを確認するために来ました」 リディアが答えると、娘――マレナは一瞬だけ目を細めた。「言い訳しないんですね」「まだ何が起きたか分かっていませんから」「毛布は来てません」「はい」「乾燥肉は八箱だけ」「帳簿では三十箱です」「薬は四箱」「帳簿では二十箱」「じゃあ、帳簿が嘘です」 あまりにも簡単に言い切った。 リディアの後ろで、北部長官府から合流した救済担当官モリス・ハントが顔をしかめる。「娘。王国の正式記録に対して、根拠もなく嘘などと」「根拠ならあります」「どこにだ」「宿に」

  • 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま   第87話 新婚旅行ではありません

    第87話 新婚旅行ではありません 新婚旅行に持っていく荷物として、受領印照合表は少し重すぎる。「こちらの箱は、二号馬車へお願いします」 王宮北門前の荷積み場で、リディアは木箱を指さした。 朝霧の中、荷運びの兵士たちが忙しく動いている。北部監査隊の出発まで、あと半刻。馬車は四台、荷馬車が二台、護衛騎兵は十二名。 その後方には、なぜか花束を抱えた人々まで集まっていた。「リディア監査官」 セオが木箱を持ち上げ、顔をしかめる。「これ、本当に書類だけですか」「はい」「石板が混ざっていません?」「北部三郡の過去五年分の救援物資記録と、運送商会別の契約書、それから受領印の写しです」「つまり書類ですね」「最初からそう言っています」「書類が石より軽いとは限らないと、今日学びました」 セオが箱を抱えてよろめくと、隣にいた護衛兵が慌てて手を貸した。 その向こうでは、ロザリーが荷物の一覧を読み上げている。「監査記録箱、十二。筆記具箱、二。簡易計量器、一。布地検査器具、一式。受領印照合用拓本紙、五百枚」「五百枚も必要ですか」 セオが聞く。「不足する可能性があります」「では、新婚旅行の衣装は?」 近くで見物していた貴婦人の一人が、悪気なく尋ねた。 リディアは振り返った。「何の衣装でしょうか」「ですから、北部での晩餐会や、雪景色をご覧になる時の」「視察用防寒外套が二着あります」「そうではなくて」 貴婦人は笑った。「王弟殿下との新婚旅行なのでしょう?」「違います」

  • 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま   第86話 王弟妃の偽署名

    第86話 王弟妃の偽署名 無実を証明する書類ほど、読まれないものはない。 翌朝、監査局が発表した声明は、王都に六百部配布された。 読まれたのは、おそらく半分ほど。 内容を正しく理解した者は、さらにその半分。 残りの者たちは、見出しだけを読んだ。『王弟妃、偽署名を主張』『消えた毛布百枚』『雨音基金に重大疑惑』「主張ではありません」 リディアは新聞を机へ置いた。「筆跡照合によって不一致を確認しています」 向かいの席で、セオが苦い顔をする。「新聞としては、『筆跡照合によって本人の署名ではないと確認された』より、『偽署名を主張』の方が短いのでしょう」「短ければ、事実を変えてよいのですか」「よくはありません」「では、訂正要求を出してください」「既に三社へ出しています」 ロザリーが答えた。「一社は訂正版を午後に発行予定。二社は『調査中である以上、表現として問題ない』との返答です」「問題があります」「抗議文を準備しています」「お願いします」 ロザリーの仕事が早い。 ただし、噂はもっと早かった。 王都西地区では、雨音基金の募金箱へ入る硬貨が、前日の三分の一まで減った。 貴族街の二つの商会は、調査結果が出るまで定期寄付を停止すると申し出た。 匿名で届いた手紙には、『王弟妃の名を使えば、監査官自身が監査を逃れられるのではないか』 と書かれていた。 さらに、悪意だけではない手紙もあった。『少額ですが、亡き夫の遺した金から寄付をしております。疑

  • 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま   第85話 届いたことになっている毛布

    第85話 届いたことになっている毛布 雨音基金に届いた最も重要な申請書は、申請書ではなかった。「……これは、何でしょう」 セオが机の上の布切れを見下ろした。 元は穀物袋だったのだろう。粗い麻布の端が不揃いに裂かれ、土と煤で薄汚れている。 その中央に、炭らしきもので文字が書かれていた。『毛布百枚、届いたことになっています。村には一枚もありません。字が違っていたらごめんなさい。』 差出人の名前はない。 村名も、書かれていなかった。 ただ、布切れと一緒に、青い糸を七回結んだ短い紐が入っていた。 リディアはそれを指先で持ち上げる。「七回」「何かの暗号でしょうか」「分かりません」「悪戯という可能性もありますね」 セオが慎重に言った。 悪意があるわけではない。ただ、証拠として扱うにはあまりに情報が少なかった。 ロザリーは既に記録用紙へ書き込んでいる。「到着時刻、第三刻十五分。封筒なし。古穀物袋と思われる麻布一枚、青色の紐一本」「紐の長さも測りますか」「測定済みです。十四・二寸」「早いですね」「必要ですので」 リディアは麻布の文字をもう一度読んだ。 字が違っていたらごめんなさい。 その一文だけ、他より小さい。 書いた者は、毛布が届かないことより、自分の字が正しくないことを恥じている。 助けを求める時ですら、先に謝っている。「どこから届いたものですか」 リディアが尋ねる。「王宮西門の救済箱へ入れられていました」

  • 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま   第84話 悪女監査官の新しい帳簿

    第84話 悪女監査官の新しい帳簿 復讐が終わっても、提出期限は終わらなかった。「第二王子殿下の差異整理表、期限内に届きました」 朝一番、ロザリーがそう報告した。 リディアは、雨音基金の新しい申請書から顔を上げる。「本当ですか」「本人署名です」「代筆では?」「筆跡照合済みです」「補佐官が机の横で急かした可能性は?」「ダリオ補佐官の添付書によれば、終了一刻前に提出されたとのことです」「余裕がありますね」「前回は四半刻前でした」「改善しています」 セオが向かいの机から顔を出した。「殿下が期限を二回続けて守っただけで、監査局全体が妙に感動していますね」「当然を学び直している途中ですから」「三回守ったら、お祝いしますか」「しません」「即答ですね」「期限を守った者全員を祝っていたら、監査局の予算が菓子代で消えます」「では、心の中で」「それは自由です」 ロザリーが記録用紙へ何か書き込んだ。 リディアは眉を寄せる。「今、何を書きました?」「王国監査官、第二王子殿下の期限内提出を評価。ただし祝賀予算は認めず」「記録しなくて結構です」「既に書きました」 朝から、いつも通りだった。 婚姻して三日。 リディアは社交上、リディア・レイヴァンと呼ばれるようになった。 けれど監査局の机も、書類棚も、仕事の量も変わっていない。 机の右には雨音基金の苦情書。 左には薬草保管箱の検査報

  • 妹に婚約者も名誉も奪われましたが、私は王宮中の弱みを知っています 〜泣き寝入り令嬢の静かな復讐が、冷血宰相の執着を呼びま   第83話 花嫁、初日に帳簿を開く

    第83話 花嫁、初日に帳簿を開く 新婚初日の朝に花嫁が最初に開くものは、普通なら寝室のカーテンか、夫から贈られた宝石箱であるらしい。 リディアが開いたのは、雨音基金の緊急申請書だった。「北西部、ガルデン村施療院。薬草保管箱十二個のうち七個にひび割れ。乾燥薬草の一部に湿気。原因は納入業者の加工不良、もしくは輸送中の破損……」「リディア」「患者数は一日平均二十六名。冬季は呼吸器疾患が増えるため、保存薬草が使用不能になれば――」「リディア」「聞こえています」「なら、こちらを見ろ」「今、重要なところです」「こちらも重要だ」 低い声に押され、リディアはようやく書面から顔を上げた。 目の前に、湯気を立てる皿が置かれている。 柔らかく焼いた卵。 薄く切った燻製肉。 野菜の入った温かなスープ。 焼きたての小さなパン。 蜂蜜。 どう見ても、重要な書類ではない。「朝食ですね」「見れば分かる」「では、後でいただきます」「今だ」「ギルベルト閣下」「何だ」「新婚初日の朝です」「ああ」「だから、もう少し――」「もう少し?」 リディアは言葉に詰まった。 甘く。 ロマンチックに。 夫婦らしく。 世間なら、そう続けるのだろう。 だが、実際のところ、夫婦らしい朝がどのようなものか、リディアには分からない。 昨夜は婚礼の宴が長引き、レイ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status